盧 志炫, 「朴裕河『帝国の慰安婦 植民地支配と記憶の闘い』」

書評 朴 裕河『帝国の慰安婦 植民地支配と記憶の闘い』(盧 志炫)

早稲田大学地域・地域間研究機構 次世代論集 第 1 号

朴裕河『帝国の慰安婦 植民地支配と記憶の闘い』

プリワイパリ社 2013年 327頁/ 朝日新聞出版2014年 336頁

東亜日報記者

早稲田大学 アジア太平洋研究科 博士課程満期退学

盧 志炫

2016. 3. 6

1. はじめに―「20年公的記憶」への挑戦としての本書の意義―

韓国で2013年8月、朴裕河 (パク・ユハ)教授の『帝国の慰安婦』が出版されたときは、社会的反響がこれほど大きくなるとは予想できなかった。発売日がちょうど8月15日「光復節」(植民地から解放された日)だったため『帝国の慰安婦』を扱ったメディアは多かった。2013年8月、多くの文化部記者は「社会的論議があり得るにしても、解決できないままにいる慰安婦問題に対する新しい視点を示している」という立場が多かった。少なくとも2016年現在のようにパク・ユハ教授の本を「正しいか正しくないか」の二者択一の観点からは取り扱っていなかった。「現在の韓国では、パク教授の主張はまさに親日派だと言われる。実際インターネットでは彼女をめぐって「隠れ日本右翼」というふうに批判する意見が少なくない。68周年を迎える光復節を控えての出版という大胆かつ論争的な『帝国の慰安婦』は韓国でどのように受け止められているのか。([本と人生]慰安婦解決法、日本政府はもちろんのこと、韓国の民族主義も障害物)『京郷新聞』2013年8月9日」)

一方では、より大胆な評価もあった。「著者のこのような挑発的主張に肯定するのは確かに容易ではない。しかし、慰安婦問題に関して日本のみを激しく睨みつけてきただけだった私たち自身の姿を一度鏡に映して見るべき時期にも来ているのではなかろうか。」(「慰安婦、半分の真実…隠されている残りの半分をあばく」『東亜日報』2013年8月10日)

もちろん、パク教授の趣旨が誰にでも受け入れられたわけではない。「民族主義的な観点で安易に問題を捉える人々にとっては確かに衝撃的である。しかし、その衝撃は直ぐさま疑問をもたらす。特に・・・帝国と冷戦が残した問題を解決しないままでは慰安婦問題の真の解決にはほど遠いとの虚無主義的主張からは、著者の意図と関係なく日本右翼の影はちらついている」(『ハンギョレ21』第974号、2013年8月16日)からうかがえる。ただし、当時パク教授の本が法的訴訟につながると予想したメディアは、多くなかった。

10ヶ月後事態は急変した。2014年6月「ナヌムの家」で生活している慰安婦被害者のおばあさん9人は、『帝国の慰安婦』が慰安婦被害者たちを「自発的売春婦」・「日本軍協力者」などと名誉を毀損したとして、出版差し止め・販売等禁止の仮処分申請を行うととともに一人あたり3000万ウォンの損害賠償を求める請求訴訟を起こした。裁判所が2015年2月仮処分申請を一部受け入れることで現在『帝国の慰安婦』は問題となった34ヶ所が削除された状態で再販されている。パク教授は1審で9000万ウォン(日本円で約900万円)の損害賠償の支払を命じる判決を下された。

彼女の民事控訴審は現在進行中である。民事とは別に、刑事訴訟のためにパク教授は国民参与裁判(2008年から始まった国民が評議して有罪・無罪を決める「陪審制」と、裁判官と国民が協同する「参審制」から成る)を申請し、自身の本の原稿すべてをホームページに公開した。2015年12月知識人約190名は、パク教授の刑事起訴に反対するという内容の声明を発表した。彼らは、『帝国の慰安婦』の主張には議論の余地はある。しかし、慰安婦問題自体が最初から葛藤を抱える複雑な事案」だと述べながら「起訴により研究と発言の自由が制限されることがある」と主張した。(「朴裕河への刑事訴訟に対して知識人190人が声明」『ノーカットニュース』2015年12月2日)

12月末の韓国政府と日本政府による電撃的な外交的合意は、パク教授を非難する側をより刺激した。「韓日政府が共謀して(好き勝手に)合意を決定した」と主張する側からは、パク教授の1審での敗訴を「正義が勝利した」と解釈した。

このように韓国の状況を詳しく説明する理由は、『帝国の慰安婦』が単なる学術書の領域に止まらない影響を持っているからである。

2.増えていく登場人物、薄れていく加害性

この本は、大きく三つの部分に分けられている。まず、一つ目は朝鮮人慰安婦がどのような経路で日本軍が駐屯している所まで行くようになったのか、また、彼女らがそこでどのような事を経験したのか、慰安婦からの生前の証言に基づいて説明している。二つ目は、日本大使館前での水曜集会を主導している韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)などの支援団体が何故問題解決をさらにむずかしくさせたのかについて指摘している。最後の三つ目は、国際社会で軍慰安婦に関連した内容と合意内容について説明している。

この本が不都合に思われる理由は、長年韓国人が抱いていた一つの物語(Plot)を壊したからである。「幼い少女たちは無理やり連れ去られ、遠く離れた異邦で性奴隷として操られ、苦しめられたが、これについて日本は謝罪を行わず、右翼政治家たちの妄言が相次いでいる。」というものだ。このような、かわいそうな朝鮮人少女と悪い日本国という登場人物が二人の物語を『帝国の慰安婦』は揺るがしている。少女を朝鮮から中国へ、名の知らないある東南アジアの島へ移動させた大勢の登場人物たちが新しく登場してくる。(韓国版26p、日本版34p) 共同体は少女を守ることができなかった。日本人業者だけでなく朝鮮人業者が人身売買と就業詐欺に関わったと著者は説明している。(韓33p、日40p)

韓国人にとって植民地時代の朝鮮人とは、「独立のために抗日運動を行った救国の英雄」と「祖国を売って自分自身の個人的栄達を求めた親日派」の二つのイメージしかなかった。著者は、その両極の間に数多くの人間たちがいたことを指摘している。お金のため、生きるためという理由と、女性の人権を重視しない家父長主義とが、歯車のように噛み合っていたこともあったのだ。 この本は、朝鮮人が介入していたという理由で日本を兔責していない。戦争と帝国主義、強制動員により自らの意思に反して犠牲にされた女性たちについて悲しんでいる。また、彼女らの尊厳と名誉は保護されるべきだとも語っている。

しかし、著者のこのようなアプローチは、必然的に反発を招きかねない。慰安婦を苦しめたり搾取したりした人が民間業者であること、軍が関わってはいたが、その関与した形は私たちが想像しているものとは違っていたと著者が語れば語るほど「一つの敵」が消えていくためである。銃と刀で少女の性を蹂躙した悪のイメージが薄れていくなかで、「だとすれば加害責任は誰に問うべきなのか」という問いだけが残されてしまう。著者は幾度もなく帝国主義システム下で犠牲になった朝鮮人慰安婦問題に対して日本が積極的に乗り出して解決すべきだと促しているが、韓国で「日本の立場を代弁している」と非難されるのもそのためである。

日本軍に対する「他の証言」も韓国読者たちを混乱させている。特に、「同志意識」という部分が非難された。(韓75p、日92p)日本軍は、邪悪な集団としてのみ知られていたが、慰安婦証言集の中の軍人も人間であった。馬に一緒に乗ったり傷を治療してあげながら故郷の話しを語り合ったりする姿、戦闘を前に恐いと言って泣く兵士、死を前に「もう自分には要らない」といいながらお金を置いていった兵士…。「日本軍人と互いに愛し合い、数十年が過ぎた今も忘れられない」と言いながらいまだに彼の名前を憶えているという慰安婦の証言に、韓国人読者が憤りを覚えるのもある意味では当然である。この記憶では加害性が薄れているからである。著者は、慰安婦を闘士としてのみ理解するのは、彼らに記憶を強制することであり、慰安婦たちから自らの記憶の主人になる権利を奪うことだと非難している。(韓117p、日143p)

3.アジア女性基金についての再評価

この本は、それまで失敗したと評価されてきたアジア女性基金についても再解釈を行っている。韓国内では支援団体と学者たちの説明から「日本は、政府レベルの謝罪と補償を行わないために民間基金の形で「適当に」はぐらかそうとしている」という常識がある。著者は、アジア女性基金が韓日両側の支援団体による度を越した憶測が原因で失敗したと評価した。著者は、アジア女性基金について再評価するととともに、韓国社会内で「存在するものの存在しないがごときに声を失っていた」慰安婦おばあさんたちの意見を紹介している。(韓122p、日145p)韓国メディアでは、それまでアジア女性基金に対して反対したり、受け取りを拒否したりしたおばあさんたち、特に支援団体が主管する水曜集会に参加するおばあさんたちの声を多く紹介した。

これに対して、著者は沈美子(シン・ミジャ)おばあさん(2008年死亡)など合計33人が組織した「ムクゲ会」について詳しく述べている。彼らは、1990年代はじめは挺対協を受け入れようとしたが、その後は挺対協の闘争方法に反対する形で組織された。挺対協または支援団体の関係者たちがおばあさんたちを大事にせず、政治活動にのみ没頭しているということが反対の理由だった。アジア女性基金がスタートした際、挺対協は本当の謝罪ではないという理由で、おばあさんたちが日本からお金を受け取ってはいけないと主張した。韓国政府に登録されている軍慰安婦被害者238人のなかで61人だけが基金を受け取った。著者は、アジア女性基金を通して日本の謝罪を受け入れた慰安婦おばあさんたちの声は支援団体によって排除されたと主張している。それまで彼女らは、お金のために裏切った、戦列を乱した裏切り者であった。この本は、彼女らの声も復元させている。

慰安婦おばあさんたちに対する韓国人の心は、罪責感である。国が弱く、力がなくて女性たちを守ってあげることができなかったという申し訳なさと、彼女らの恨みを70年が過ぎている今でも代わりに晴らしてあげるべきだという気持ちを持っている。しかし、これまで「一つの声」だと思われてきた慰安婦おばあさんたちの考えが、実は多様であったのだとすれば、最終解決策や終着駅はどこにすべきなのか。その終着駅について明確だったはずの一つの正解が不透明になったのである。

4.終わりに:解決方法についての根本的な問い

著者は、支援団体が主張する「国会立法による解決」は現実的に不可能だと言っている。日本の法的責任についても既存の主張とは対立する主張を繰り広げている。加害性は薄れてしまった。今まで一元化された慰安婦おばあさんたちの代弁人と思われていた支援団体に対しても批判している。だとすれば、どうすべきだろうか。

この本は、「0」(日本総理の公式謝罪と国会立法による補償)と「1」(朝鮮人慰安婦は自発的売春婦であり、日本は間違ったことをしていない)の極端だけが存在すると思っていた韓国読者に不都合さと驚きを与えた。0と1の間に0.2、0.4、0.7も存在すると語っている。この本は、混乱している読者に一つの明快な答を提示することはできない。「被害者はいるが加害者はいない」という状況を創り上げている。そうだとすると慰安婦の悲しみは、個人の悲劇にすぎないものなのか。

支援団体という中間代弁者について批判をすることで、著者は読者を「それではどのように解決すべきなのか」について悩ませている。韓日合意を受け入れる慰安婦おばあさんがいて、そうではないおばあさんがいるとすれば、何を基準にすべきなのか。最終合意とはどの場合に行われるものなのか。一人でも容認できないのであれば最終合意には至らなかったことになるのか。 『帝国の慰安婦』は、明快な勧善懲悪のストーリーを非常に複雑にさせた。話が複雑なために韓国内では「慰安婦おばあさんを売春婦のように描いた」と非難されることもあり、日本の右翼から「私達と同じく考えている韓国人もいる」と一部分のみを抜き取られて引用されることもある。しかし、両者ともに自分が見たい部分だけを抜き取って利用しているに過ぎない。

韓日の若者達が憤怒を再生産したり、あるいは無関心になるのは防がなければならない。生存者も残りわずかであり、90歳になるおばあさんが憤怒と悲しみを抱いたままこの世を去らないことを期待している。この本は、その和解に至るまでにどうすればよいのか韓日市民に問いを投げかけている。韓日の両国政府が合意履行過程をどのように進めていくのかをまず見届けたいという人が多い。その過程の如何によって『帝国の慰安婦』は互いに対する理解の地平を広めた本になることも、または慰安婦おばあさんたちの尊厳を損ねた本になることもできる。結局、『帝国の慰安婦』は今後の政治状況によって引き続き議論にならざるを得ない、悲しい運命に生まれたのである。

参考文献

1)京郷新聞 2013年8月9日付 (2016年3月6日閲覧)

http://news.khan.co.kr/kh_news/khan_art_view.html?code=900308&artid=201308092100545

2)東亜日報 2013年8月10日付(2016年3月6日閲覧)

http://news.donga.com/3/all/20130810/56940279/1

3) 「解決されない日本軍「慰安婦」問題を覗いてみた二つの視線」『ハンギョレ21』第974号 (2013年8月13日) (2016年3月6日閲覧)
http://h21.hani.co.kr/arti/culture/culture_general/35183.html

4)ノーカットニュース2015年12月2日付 (2016年3月6日閲覧)
http://www.nocutnews.co.kr/news/4512471

 

 

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