[反論]「若い歴史学者たちの批判に答える」

若い歴史学者たちの『帝国の慰安婦』批判に答える
「若い歴史学者たち、『帝国の慰安婦』を語る」
(『歴史問題研究』33、2015)に対する反論

朴裕河*


1. 批判の方式について

1) 虚偽の摘示

2) 内容の誤解と縮小

2. 批判の内容について

1) 軍人と慰安婦

2) 軍人と業者

3) 朝鮮人慰安婦

3. 批判の態度について

1) 表象

2) 曲解

3) 陣営の論理

4) 傲慢


______

* 世宗大学国際学部教授。
『ナショナル・アイデンティティとジェンダー―夏目漱石で見た近代』(文学ドンネ、2011);『和解 のために』(根と葉、2005)。


  1. 批判の方式について

 1) 虚偽の摘示

『歴史問題研究』33号に集談会「若い歴史学者たち、『帝国の慰安婦』を語る」[1]が掲載された。彼らの批判もやはり在日同胞学者、鄭栄桓と同じように誤読と曲解、そして敵意に満ちた内容だったことと、[2]一人の学者の悩みに対する基本的な尊重すら見られない乱暴な言葉が精製されないまま学術誌に掲載されたことに対し、まず先に深い遺憾の意を表する。

批判は全体の文脈を把握して、その中で各記述がどんな脈絡で使われているかを辿りつつ行われなければならない。しかし彼らは、私が本の中で批判した挺対協(韓国挺身隊問題対策協議会)に対しては「脈絡まで」(前掲集談会、561頁。以下頁数のみ記す)辿らなければならないと言いながら私の本に対しては脈絡どころか書かれている内容さえないかのように扱う。彼らの批判が論旨に対する具体的な反論ではなく、印象批評に偏っていることは、彼らが慰安婦問題の研究者ではないため、仕方がないことだが、それならより一層謙虚でなければならなかった。そういった性急さと隠蔽については先に言及した鄭栄桓に対する反論も参照してほしい。[3]

彼らの批判がどれくらい性急な誤読に基づいているかを示す代表的な例を一つだけ先に提示しておこう。私は『帝国の慰安婦』の2部3章、すなわち慰安婦の再現の問題を取り扱った部分でアニメーション『少女物語』の問題と、一人の慰安婦ハルモニの証言が時間が経つにつれて次第に変わっていった事実を指摘したことがある。『少女物語』の場合、ハルモニの証言がアニメーションの中でどのように変形されたかを指摘しただけなので、この部分がハルモニを批判したわけではないということは明らかだ。また、後者に関しても、私は「そのような変化は意識的な嘘というよりは、聞く側の期待がそうさせた側面が大きい」と書いた。続いて「そういった意味において、慰安婦の証言に違いがあるからといって慰安婦たちだけを非難することはできない。また、そのような証言を聞きたがっていたのは、かえって私たちだといわなければならない。(…)被害者であることを確認するための民族言説は表面的な被害認識以外のすべての記憶を抹殺しようとする」[4](以下、「『帝国の慰安婦』、頁数」で本文に記す)と書いた。

そういうふうに、この部分の批判の対象が私たち自らが被害者であることを確認するための民族言説であることを明らかにしつつ、「見たくないものを永遠に見ないで済むようにしてくれる」ことを願う私たちの中の欲求について言及してからこう書いた。「しかし、70歳になるまで過去の自分の姿を直視できないのでならば、それは過去の傷が深いからというよりは、傷を直視して乗り越えようとする勇気が足りないからというしかない。あるいは、私たちがまだありのままの自分を認めて抱きしめる自分への愛より、他者の目に美しく見えることを願う欲求のほうが大きい未成熟の状態に留まっているからとしかいいようがない。もう自分をありのまま受け入れたくないのか」(『帝国の慰安婦』、134)と。

ここで問題にしている対象が慰安婦ではなく、私たちであり、解放後の韓国であることはあまりにも明確な事実だ。しかし若い学者たちは「慰安婦の経験をした人々にこんな反省と批判を強調することは、実は無理があるのに、著者はこの批判を彼女たちに集中させます。例えば<70歳になるまで過去の、(…)未成熟の状態に留まっているからとしかいいようがない>といった表現のようにです。勇気の不足、未成熟などと責め立てています」(550)と非難する。事実、この部分は『帝国の慰安婦』を告発した人たちが最初の告発状で摘示した109ヶ所の中の一つであった。支援団体は以後、私が反駁文を提出したら、指摘内容を半分に減らして、告発趣旨まで変えたが、この部分はそのとき消えた指摘のところだ。若い学者たちの中に訴訟文書の作成に直接関わっていた人がいるかどうかは分からないが、そこで問題とした内容もやはりこの人たち主張と同じだった。

解放後70年という時期にハルモニが70歳であるならば、解放の頃に生まれたという話になる。当然慰安婦の体験をしたはずもない。この集談会はこのような、笑うことすらできない誤読に満ちている。

彼らは『帝国の慰安婦』の33頁に出てくる笑っているイメージの使用を問題にして、写真の位置が意図的(554)であることが明白だとしながら、卑怯だとかいう人身攻撃までためらわないが、33頁はもちろんのこと、32頁にも34頁にも彼らが指摘した、慰安婦の数が20万人より少なくて、相手にした数も少なく、恋愛もするような存在だったといったくだりは、この写真の載っている部分には出てこない。何より、イメージの使用位置は出版社が決める。明らかに私を道徳的に問題のある人だと誣いるための虚偽であり、根拠のない誹謗である。彼らの批判は残念ながら鄭栄桓におとらず悪意的で、その歪曲水準が犯罪的だ。

また、『少女物語』に対する私の指摘をめぐって、私がないことを話したかように誣いるが、私がこのアニメーションを見たときは確実にあった。私は根拠のない批判はしない。また、私は『帝国の慰安婦』の批判に対する反論に「表現の自由」(543)、「学問の自由」(543、572、575)といった単語を使ったことがない。表現の自由という名で擁護しなければならない問題的な記述自体をしなかったから当然のことだ。このように彼らはしてもいない行為をしたかのように語って、虚偽に基づいた誹謗に集中する。

 2) 内容の誤解と縮小

彼らはこの本を民族主義に対する批判と見ているが、この本は旧日本帝国に対して韓民族の後裔の一人として責任を問うている本だ。だからあえて民族に対する距離を尋ねるなら、むしろ民族主義的な本だ。挺対協に対する批判は、民族主義批判そのものでなく、民族主義を利用しているか、捕らわれているリベラル左派に対する批判だ。挺対協の代表が日本に右翼を監視するシステムがないといって、日本を変えなければならないと力説したことは、そのような構造と無関係ではない。[5]それは日本のリベラルが夢見ていた日本社会の改革と通じる話だったが、同時に挺対協の運動も慰安婦問題よりリベラルが世の中を変えるような政治的問題に重点が置かれていたということを示す。しかし、自分たちの主張と異なる考え方に対しては、一概に右翼と見做して非難してきたリベラルの運動方式が日本の反発を深化させたと書いたところをもう一度読んでほしい。

したがって、私にこの本の中で民族主義を「ぶち壊す」(578)というような意図がある理由がない。私はすでに民族主義批判を試みたし、もう民族主義批判は私にこれ以上大きな関心事ではない。[6]

繰り返すが、『帝国の慰安婦』は民族主義批判ではなく、帝国主義批判の本だ。2014年秋に出た日本語版が日本で肯定的に受け入れられたのも民族主義を批判したためではなく、彼らの帝国の問題を語ったためだ。私に対して好意的に評価した個人と言論がほとんどリベラル系であったということもそれを証明する。彼らは私の本を正確に読んでくれた。[7]特に日本のリベラルの学者たちがこの本をどのように受け入れたのかについては、最近出てきた論文でよく整理されているので、参照してほしい。[8]20年余りの慰安婦問題史の整理の中で私の本を公正に評価してくれたのが韓国ではなく、日本の方だということは極めて残念である。

したがって、「植民地内部の位階を考慮しないせいで、帝国については語るが、植民地については語れないようです」(551) 「同志的な関係を著者が発見したことは事実だとしても、帝国全体に対する批判に進まなければならなかったですね」(551)といった批判は、彼らが本をまともに読んでいないということを物語っているだけだ。私が慰安婦の「苦痛から顔を背け」(575、576)たという主張も同じだ。

『帝国の慰安婦』は朝鮮人慰安婦に対する日本軍人の差別と暴行に言及することで軍人と慰安婦間の位階関係、すなわち植民地内部の位階を取り扱ったし(『帝国の慰安婦』、142~164)、慰安婦と帝国、慰安婦とアメリカ、慰安婦と韓国を見ることで、日本はもちろんのこと他の帝国に対する批判も試みた。[9]

「公娼は帝国主義の移動と定着を支えた場所」(『帝国の慰安婦』、277)、「そうして帝国作りに参加した国家はすべて自国の男性たちのために慰安婦を必要とした」(『帝国の慰安婦』、278)、「帝国はそのように祖国を離れた商人たちが(…)言い換えれば、彼らが国家の勢力を拡張し、経済を豊かにする任務を遂行する道から離脱しないように管理する」(『帝国の慰安婦』、279)といった記述は全部その文脈で書かれた。この本の題名が『帝国の慰安婦―植民地支配と記憶の闘い』である理由も、朝鮮人慰安婦とは日本帝国に動員された慰安婦だったことを示すためであった。

すなわち、今まで戦争問題としてのみ理解されてきた慰安婦問題を帝国の問題として理解すべきだということがこの本の趣旨であった。朝鮮人慰安婦とは、朝鮮が植民地になり、日本帝国の一部として包摂されたせいでできた存在であるがゆえに、その帝国の責任を日本国家に問おうとしたのがこの本の目的だった。

言ってみれば、彼らは本の中に明確に存在する帝国批判を看過、もしくは無視した。彼らが『帝国の慰安婦』が植民性批判のないフェミニズムの本で、私が提示した慰安婦像は帝国の責任を消滅させると考えるのもそのような根本的な誤読と曲解がさせることだ。フェミニズムに対する私の立場は夏目漱石という近代日本の知識人の帝国主義的意識を批判した私の他の本を参考にしてほしい。その本が私の原点でもある。[10]私はアジア女性基金が解散した後、慰安婦問題についての関心が極めて少なかった2010年に、その年にしなければならないことは他でもない慰安婦問題の解決だという内容のコラムを共同通信発の記事で日本に向けて書いたこともある。[11]

  1. 批判の内容について

 1) 軍人と慰安婦

批判者たちは『帝国の慰安婦』における慰安所の様子が「あまりにも平和」だといいながら「ロマン化」(553)された再現を試みたという。しかし、こういう指摘はこの本の半分しか読んでいないことを物語っている。慰安婦に対する日本軍の暴行とレイプについて言及したところを再読してほしい[12]。また、再現というのは表現者の主観が入らなければならないが、私は慰安婦の証言集を引用しながら分析し、その結果を客観的に述べただけである。

批判者たちの反発は基本的に慰安婦問題を朝鮮人の女性が日本人の男性に被害を受けたこととして理解することから始まる。むろん、そういう理解は間違っているわけではないが、そういう理解だけでは慰安婦問題をまともに把握したことにはならないというのが私の主張だった。朝鮮人慰安婦問題とは、性差別と階級差別が民族差別以上に直接的な機制になり女性たちを動員した事件だった。

日本軍に犠牲を要求された女性はまず、日本人であった。日本軍は1911年、鎮海に駐屯基地を作るとき、既に軍人専用の遊郭を基地の設計図の中に入れ、日本本土から女性たちを呼び込もうとした[13]。日本軍が慰安婦を必要としたのは遠く離れて来た自国の男性のためであるだけに、自国の女性が一番適切な相手と見なされていたのは当然なことだ。批判者たちは私が日本人慰安婦と朝鮮人慰安婦を「等置」(573)しているといっているが、私は日本人慰安婦と朝鮮人慰安婦の位階についても明確に言及した[14]。慰安所で日本人女性の賃金が最も高かったと述べた理由も彼女たちの間にある位階関係を説明するためであった。

批判者たちは日本軍が朝鮮人慰安婦を保護したとでもいうのかと反発するが、保護は必ずしも搾取の反義語ではない。一方では搾取しながらも、搾取し過ぎる業者や規範にはずれた軍人から慰安婦を「保護」(553)したのは、朝鮮人が日本人の代わりの存在だったからである。言い換えると、朝鮮人慰安婦は朝鮮人だったが、日本の国民でもあったので保護の対象になることができた。

特に憲兵は、軍人と慰安婦と業者の間で彼らみんなを監視し管理する存在だった。「あのね、憲兵隊じゃないと、軍人たちは怖がらないです。憲兵隊じゃなければね。どこか行って酔っぱらってくる奴らもいたからね。そしたら憲兵隊が来て調査しました。憲兵隊でいっぱいになった。そういうのは憲兵隊が処理してたのよ。[15]」という証言を参照してほしい。日本政府が調査しアジア女性基金が発行した5冊の資料集にも、軍人たちの暴行などを軍上層部がどう処理したかをまとめた資料が含まれている[16]。「海南島の慰安所は軍隊が上から一定の指示をした。海南島では最初は、相当の期間中、1割ずつもらった。しかし軍隊の責任者が代わると、収入の6割を女性たちに与えて4割を抱え主が取るように取り決めてくれた[17]」という証言も国家・軍人が慰安婦を保護する面も持っていたということを示唆する。

ところが、私は軍人たちの暴行とレイプの情況がわかる資料を通じて日本軍と朝鮮人慰安婦の関係が明瞭な位階関係だったことも確かに指摘した。したがって、『帝国の慰安婦』に軍人と慰安婦の間の差別性があらわれていないとし、日本の責任を問わなかったという指摘は、指摘者が本を偏った視線で部分的に読んだのをあらわすのみである。私が慰安婦に対して軍需品という表現を用いたのも、軍人にとって慰安婦とは品物に過ぎなかったという意味だった。よって、責任主体の対象から軍を抜いたとしたり責任を「抽象化」(546)したというのは彼らの誤読の結果だ。

批判者たちは慰安婦の恋愛に拒否感をあらわしているが、慰安婦に頼まれてモルヒネとその他の軍用薬品を盗もうとした軍人が発覚され、重営倉30日に処分された事実[18]もあった。むろん、こういう事実を指摘したとしても、男性と女性、もしくは朝鮮人と日本人との差別、位階関係が消えるわけではない。

彼らは私が言及したケースを例外に見なしたがっているが、こういう情況が例外ではなかったという証拠はどこにもない。かえって、例外に考えたがっている心理は慰安婦の体験を疎外させることだ。聞き手のそういう心理こそがまさに「私は満州のことを誰にも話さない。恥ずかしくて……。家にああいうふうに来て質問したら、やられたことだけ話してあげるのよ。[19]」といったような反応を助長したことでもあった。

「慰安所から出て朝鮮人軍属と一緒に軍指定の鉄工所を経営」[20]し、「手榴弾のような武器も製造して修理もする軍需工場を経営しながら軍属として月給」をもらった経験がある人の口述を記録した人は「書類にはこの部分が漏れていることを確認」したと書いた。可視化された数字や事例だけが全てではないのだ。

私が用いた同志的な関係という概念はこういう重層的な構図を表現した単語だった。日本帝国が戦争を進めることによって、植民地だった朝鮮はその構図の中に入ってしまった。その情況を、私は国民動員として見なした。また、戦争対象国との関係で日本人と朝鮮人は同じ日本人として存在したということが同志的な関係の1次的な意味だった。実際に慰安婦ハルモニの中では慰安婦とは軍人の面倒を見るものだったと証言した人もいた[21]。2015年8月に出た一資料には慰安婦が軍属だったとまで書かれている[22]。もちろん、そういう情況を見ることが直ちに「同じ位置」(550)や「同等性」(551)を主張することになるわけではない。

「正式な看護師は数人しかいなくて私たちのような人が多かった。患者からは臭いもしていて(…)私たちはそういう患者の面倒を見る仕事をした。患者たちに食事のときに梅干し一個と重湯一茶碗を持っていって渡し、口を怪我して食べられない患者には横にさせたまま口を開けさせて飲ましたりもした」(強制連行された朝鮮人慰安婦たち1,178)との情況はかえって慰安婦たちが国防婦人会員の勤労挺身隊と同じ役割まで要求されていたことを明確にあらわしている記述だ。同志的な関係であることをいった理由の一つは朝鮮人日本軍と似たような枠で理解するとき、補償要求が逆に可能になるからでもあった。私は「強制徴用された人たちを排除」(558)したどころか、むしろその概念を慰安婦問題解決に適用しようとした。物理的な強制連行という理解を中心に不法性だけを主張してきた支援団体や研究者たちのやり方に問いをかけ、私のやり方を提案したのだ。

批判者たちは「他のところは別として日本は北朝鮮と韓国には(補償)しないと。台湾までもそうしなければ。そこでも姓も名前も日本式に直されたからね。私たちは国のために行かなければいけないといわれ日本人扱いされていたのよ。こういうふうにして連れて行ったから必ず補償しないと。しかし、中国、フィリピンはみんな営業用で稼ぎに行ったんだよ。だからそちらはしなくていい。」[23]という声に耳を済ませなければならない。私が同志的な関係という単語に含ませた1次的な意味はそういうことだった。また、強制連行と主張している支援団体を批判していた慰安婦の存在も振り返らなければならない[24]。彼女たちは例外的な存在ではなかった。したがって、支援団体や学者たちによって排除される理由はない。

2)軍人と業者

彼らは業者に対する私の指摘に反発しながら、抱え主を「発見してそれに意味を与えることが果たして正当なのか」(546)と非難するが、私はすでに10年前の著書で業者に対して指摘したことがある。25従って業者という存在は、私にとって全く新しい存在ではない。にもかかわらず再び言及した理由は、慰安婦問題で国家の搾取に覆われて見えていなかった、帝国主義に加担した業者の搾取に対して述べたかったからだ。

また私は、業者を朝鮮人のみだとは規定していない。特に強調はしなかったが、動員される現場にはほとんど日本人と韓国人が一緒に現れたという事実を確かに指摘した。特に規模が大きかった遊郭などは、却って日本人の業者の方が多かっただろうと推定する。26 だが、前線に出て行ったり、規模が小さかったりした業者の中には朝鮮人が多かったと見られるため、「日本人抱え主の比率は50%以上」(547)という断定に同意することは難しい。朝鮮人慰安婦の方が多かったなら、彼らを管理する者は朝鮮人業者が多かったという推定の方が合理的だ。

業者について述べた理由は日本の責任を弱めさせるためではなく、慰安婦の自由を拘束したのは「服は良い物を着せる。なぜかといえば、それは借金。あれが金で着させて借金を返せと。しょっちゅうやっている」27 という証言が示しているように業者たちだったからだ。「金山は客を逃すと言って、私たちを外に出られなくした」(強制的に連れていかれた朝鮮人軍慰安婦1,203)というように、業者が慰安婦を直接監禁して強制労働を課していた状況が、今日に続くことでもあるからだ。慰安婦の問題とは、実は業者の経済/利潤の問題でもあるという事実、つまりこれらを搾取した者の存在まで見なくては慰安婦問題の全貌を見ることはできないというのが、私が業者の存在を強調した理由だ。

女性たちを満州に連れていく業者と女性を中心人物として登場させている、チェ・ミョンイクの小説『張三李四』にも業者が登場して「満州や北支で金を稼ぐには、娘っ子を使った商売が一番みたいだな」と言っており、「営業するには満州かね、北支かね」といった質問に「行かなかったところはないさ。最初の4~5年は前線をついて回ったけど、あんまりにも大変なんで、それからは大連に落ち着いていた。新京に来てからは子どもたちに全て任せて、俺は去年で辞めた」「本当のこと言うと、金を稼ぐならあれほどの稼業はないぜ。何てったって女の子たちの管理の大変なこと。2~30人も抱えてりゃ、あらゆることが起きる…。それでもどうかすると、病にかかるのはお決まりのこと、そんでも人間だから、病気なら薬を飲ませないわけにはいかないけど、そうすると金はかかるし営業はできない。まぐれで治ればいいけど、ぽっくり死にでもしたら千ウォンほどの葬儀代まで持ってかれる」「病で死んだ子たちも、死にたくて死んだわけじゃないだろうし、それならマシな方だろう。勝手に惚れやがって生きるだの死ぬだの言っていたと思ったら、情死するか逃げ出すのがお決まり…」という言葉で、当時の時代的な状況の一端を見せている。この朝鮮人業者は汽車の中、人々の面前で人身売買してきた女性を殴打するほど苛酷だった。28

当時、誘拐魔と呼ばれたハ・ユンミョンの行為と少しも変わらない「抱え主の涙も人情もない行為」に対しては当時の警察も怒りを感じており、又売りした所に照会して最後まで救い出す方針で努力」していたことがわかる。警察は「女性が凶悪な抱え主の手から再び北支に売り飛ばされる前に、それこそ危機一髪」直前に救助したこともあった。つまり、植民地の警察は抱え主の犯罪行為を取り締まっていた。この事実は、国家と業者の関係が少なくとも犯罪行為においては共犯でなかったということを示している。29

まだ明らかにはされていないが、慰安所に継続して女性を供給していた大規模な業者は、少なからぬ富を築いたと推定することができる。そうした経済的な搾取者の責任を問うべき理由は、慰安婦問題が下位に置かれた民族、性、階級の問題という事実は共有されながらも、未だ貧困層を搾取した中産階級の責任は問われたことがないからだ。また、私が業者について再び論じた理由は本にも書いたように、支援団体が解決の方法として法的責任を主張してきており、その主体に国家のみを想定してきたためだ。私は法的責任を問える根拠が犯罪にあるとするならば、当時からすでに犯罪視されていた業者にまず問うべきであると考えただけだ。それは「責任を抽象化」(546) することではなく、責任問題を鮮明にすることだ。構造全体を見てこそ、再発を防ぐことができるからでもある。

1937年に上海派遣軍が慰安所の設置を決定し、西日本各地の遊郭に協力を要請した30 時、最初はこの話に誰一人として応じなかった。その内にある遊郭が協力し、その後、他の遊郭の主人たちも加担するようになった。一方では「朝鮮人が引率してきたため、無理な点もあった。徐州戦の時は華北から軍について来たが、武漢攻略戦で華北から移動した第2軍と行動を共にした者、第11軍について入城した者、上海から来た者など、その経路は様々だったが、開場当初から武漢の兵站が呼んだ所は一ヵ所もなかった。韓国で慰安所を開設したいという彼らの希望によって、積慶里に収容したのだった」31という状況もあった。日本人だろうが朝鮮人だろうが、国家政策に積極的に協力した彼らがいたからこそ、慰安所が可能だったのだ。

そうした彼らの責任を問う理由は、日本国家という大悪の責任を問うことが、小悪の責任を見落とすことになってはならないと考えるからだ。小さな悪、協力した悪に対する考察と告発なくして、国家の横暴に対する加担と協力を防ぐことはできない。私が業者の問題を提起した理由は、まさにそこにあった。

3) 朝鮮人慰安婦

彼らは私の問題提起が、慰安婦に対する認識を80年代に立ち戻らせたものにすぎないと言っている。しかし、このような指摘は「韓国人は常に貧しいから、綺麗な娘たちが了解得て働きに行くのよ。その時、50ウォンや100ウォンもらったら期限は5年にするとか、3年にするとかして。戦争や日本人にやられた人は実際に多かったからね。お金稼ぐために行く人は多かった」[25]という証言、慰安婦本人ですら認識できていた構造に耳を塞ぐことになる。植民地化は経済的搾取構造の中におかれることであり、政治的支配はそのような差別・搾取構造を容易にするためのものでもあった。

「特要員と呼ばれる娘子軍、つまり海軍用慰安婦には大阪の飛田、松島の遊郭とその周りの私娼、神戸の福原遊郭からの女が多かった」と証言した日本人業者が朝鮮人慰安婦の存在を認めなかった[26]という事実は、朝鮮人慰安婦が任務を果たし得たとしても、真の日本人として認められることの難しさ、つまり差別の本質的な様相をあらわしている。言い換えると、「特要隊の女は朝鮮と沖縄の人だけで、内地の人はいなかった」[27]という事実を直視せずに、朝鮮人慰安婦に、既存の理解とは別の意味において、最も苦しい仕事が要求されていたという事実も理解することはできない。

慰安婦体験は同じ時期、同じ場所でのものですら同一ではない。たとえば、どのような服を着ていたか、という質問に対してある慰安婦は「そのころは服なんか持ってませんでした。でも、中には日本のキモノ着てる女もいたね。年上の女たち、彼女らは日本語も勉強したからできるし、その人たちは日本語できるからヘイタイサンに好かれたね、言葉通じるから。私たちアホみたいな子たちはね、まだ若かったし何が何かよく分かんなくて、こうしてって言われたらこうして、ああしてって言われたらああして、だから何の楽しみもなくただただ生きてて、解放だって言われて死ぬ思いで出てきた。みんな出てきたでしょう、私たち30人くらい一斉に出てきたけど、あの人たちどこ行ったんだろう、日本に行ったかどうか。日本に行った人は多かった、日本のほうに」[28]と答えている。

支援団体が主張してきたような虐殺とは違った場面にも注目しなければならないはずであろうが、上記の引用から分かるように、彼女たちと日本軍との関係が年齢、日本語の熟練度、そして性格によっても異なっていたという点には一層注目しなければならない。慰安婦の証言集には本人の体験も記述するが、このように他の慰安婦についても記述する。若い学者たちの反発は、このような多様性から目をそらすことにしかならない。慰安婦たちはありのままのことを語り、それがありのままに証言集に掲載されたが、そのような多様な声が一つとなって再現された結果が、現在の慰安婦像である。そのような問題の過程を批判し、結果を見ようと言ったのが私の本であった。

私は「愛と平和と同志が一緒にいたとしても、慰安所が地獄に等しい体験であった点に変わりはない」、「たとえ自発的に望んだとしても、彼女たちに人から醜業と呼ばれていた仕事を選択させたのは、彼女たちの意思とは無関係の、社会的構造であった。彼女たちはただ貧しかったり、植民地の女だったり、家父長制における女性であったりしたために、自立を可能にしてくれる別の仕事のための別の教育(文化資本)を受ける機会が得られなかっただけであった」、「彼女たちがそのような醜業に自発的に向かったとしたら、その表面的な自発性を引き出したのはいかなるものであったかということについて考えなければならない。それは、男性であり、軍隊であり、国家であった。そして日本帝国であった。つまり、慰安婦とは、あくまでも国家と男性、そして隔離された男性集団を作り出す戦争というものが必要としたために生じた存在である。慰安婦における自発性とは、本人は意識していなかったにせよ、国家と男性と家父長制からの差別(選別)が作り出した自発性にすぎない。そして、彼女たちは、爆弾の炸裂する最前線ですら、暴力にさらされながら兵士たちの欲求をみたしてあげなければならなかった」と、『帝国の慰安婦』に明記している。日本へ責任を問うた理由も、朝鮮人慰安婦の本質を上のように規定したからである。若い学者たちから言われたような本だったら、責任を問う理由などない。

  1. 批判の態度について

 1) 表象

彼らは、私の提示したことが慰安婦の「代弁」(555)を自任したことであり、「本当」(555)の姿を見せようとしている本であるかのように言っているが、私はそう書いたことがない。私は、見えない様相を見ようと言っただけで、その理由はすでに述べた通りである。「真実は存在しない」(587)といえばよかったのではと、彼らは言っているが、それこそ私が言おうとしたことである。相反する二つの像は、両方とも真実であっても、一方だけにこだわる限り、結局いずれも真実ではなくなるというのが私の主張であった。

にもかかわらず、たとえば笑顔の慰安婦写真を活用したことを批判しながら、私は卑怯(554)だと言っている。しかし、写真説明に書かれているように、その笑顔から「望郷の念」(『帝国の慰安婦』、33)を読み取った日本人記者の眼差しも見せようとしたものであった。雑誌に掲載しながら私の使った、記者の説明付きの原本を使わず、写真だけ取り上げて私のモラルを読者に非難させようとした行為こそ卑怯なことに他ならない。

彼らが単に写真を「見心地悪い」(554)と感じるのは、期待し希望する女性(慰安婦)像とかけ離れているためであろうが、それは彼らの内部における女性嫌悪が呼び起こすことであろう。彼らが、私の引用して記述した惨酷な慰安婦像については触れず、自発性・売春と思われる資料にのみ注目するのも同じ所以である。言い換えると、既存の理解におさまらない慰安婦像に対して不愉快な感情を持って否定することこそ、ありのままの慰安婦像を否定し「排除」(557)することに他ならない。そのような行為こそ、結果的には慰安婦たちの尊厳と名誉を毀損することである。

軍人との楽しかった思い出を語るハルモニをめぐって、あえて軍人の「いじめ」(568)であったと述べるのも似たような感情がさせることであろう。彼らは、私が慰安婦について「暴力的に」(572)記述したと言っているが、当事者の感情を無視するような断定こそ、彼らの言っている「権力」(568)行使である。基金を受けた慰安婦たちが、ただ「焦り」(561)のせいで「揺れ」(561)てしまったとする断定も同じである。彼らは基金を受けて涙を流した慰安婦たちの存在を、知ろうともせず、排除する。支援団体がそうしたように。

彼らとしては、お父さんのほうを一層恨んでいるという慰安婦の発言や、慰安婦は「軍人の面倒をみる者」という慰安婦自らの証言も受け入れたくないだろうが、このような例を「誇張」(558)や「破片」(569)化と見なしたがっている心理こそ、彼らの内部に存在している排除の欲望がさせることである。

彼らの慰安婦排除は、「解決という前提を先に用意していること自体も間違」った(587)という言葉から見ても明らかである。補償と解決を願っている慰安婦たちを「暴力的」に無視しながら、彼らはむしろ私を「権力」と名付け、弱者を侮辱する強者と表象する。

 2) 曲解

私が日韓の和解を「万能薬」(565)とみなしており、和解に「執着」(565)したあまり「個人を韓国と日本の和解のために動員」(551)し、(朴裕河が)「和解が実現するだろうと思う瞬間は大統領と総理が会う瞬間です。」(551)という憶測までをも彼らが厭わないのは、恐らく徐京植ら在日韓国人の知識人の『和解のために』批判を安易に借用した結果であろう。[29] しかし私が10年前に『和解のために』を書いたのは、彼らの言動からも分かるように日本に対する我々の態度から韓国社会の深刻な問題が浮き彫りになっており、それに伴う社会的な消耗が少なくなかったからだ。和解をして終わらせようということではなく、和解のために議論の地平を共有しようと言っているのであって、そのために我が社会に足りなかった情報と認識の補充を試みたのであった。

日韓の和解に関心を持ち始めたのは、実は私たちの中にある葛藤や分裂、左右・南北対立への関心からだった。もし私の関心が日韓和解にのみあったなら、米軍基地についてはふれなかったであろう。私が目指しているのは東アジアの和解であり、当然南北の和解も含まれている。日本についてのみ言及しているのは、私が語れるほど理解している対象が日本だけであるからだ。

 3) 陣営の論理

彼らは、挺対協が私を告発していないとしてその自制心を褒めたたえていたが、実は挺対協も告発を検討していた。[30]

挺対協に対する私の批判は、民族主義への批判ではなく、前述のように彼らにも現れている当事者の排除に対してであった。元慰安婦のハルモニたちの中には国民基金の存在さえ知らない方もいるし、挺対協が主張してきた法的責任そのものを認識していなかったり否定するハルモニたちもいる。[31]

若い学者たちは、「ばあさんたちは殆どが亡くなっている。なのに、募金は受け取るな、それれは汚い金だ、それをもらったらファニャンニョン(訳注:売女、汚れた女)だ、こんな聞くに堪えないことばかり言っていたよ。」(強制的に連れていかれた朝鮮軍慰安婦たち5、117)、「今、挺対協は1億5千万ウォンを要求している。そんなんじゃ、千年の時間が掛かっちゃうかもしれない。年老いたおばあさんたちは、1億5千万ウォンなんてどこに使うんだ? 私たちは年取って死んでいく。どこからでもいいから、くれるお金をもらって使って死ぬと。多くはこうなんだ。別の思惑があるわけではない。おばあさんたちの要求も無理ではないし。また、挺対協は(国民基金を与えないように)日本に噂を広げているみたい。だから、基金をくれるなということなんだ。」(強制的に連れていかれた朝鮮軍慰安婦たち5、116)といった昔からの愚痴にも耳を傾けてほしい。

挺対協の運動方式の強制連行された少女を強調する[32]ような少女に対する執着は、慰安婦の間で違いを産み、売春への差別を助長する。それは元慰安婦たちが声をあげられるようにしてくれた、すなわち、社会の冷たい視線から守り、堂々と行動できるようにしてくれた挺対協の元々の趣旨からもかけ離れていることだ。しかし、挺対協は相変わらず売春とは一線を画したがっており、もはや挺対協と意を共にしていた日本人学者たちもこれに対する疑問を抱くようになった。[33]

挺対協は今も慰安婦の人たちは殆んど死亡したと言っているが、実際には慰安婦の殆どは中国人が攻めてきたため、抱え主と一緒に家から追い出されて、捕虜になって収容所に入れられ、朝鮮には戻りたくなかったが、「慰安婦がいっぱい」(強制的に連れていかれた朝鮮軍慰安婦たち1、69)乗せられた船に乗って帰国したと、慰安婦たちは証言する。彼女たちは「女性だけでも500人あまりいた」収容所にいたが、「大体1000人」(強制的に連れていかれた朝鮮軍慰安婦たち1、208)は乗っていた引揚船に乗って韓国に戻った。

彼らの考え方は、私の女性主義が「現政権の女性家族部と同じような立場に留まっている」(549)と言ったり、ニューライトを引き合いに出すことからも分かるように、陣営の論理にとらわれている。私の「ポジションが曖昧」(548)だと言っている若い学者たちに、小説家の慎重かつ繊細なアプローチの姿勢[34]を見習うことを勧める。

 4) 傲慢

彼らはこの本を大衆向けの本だと規定しながら、もう一方では一般の人に向けて執筆したことを問題視している。私があえてこの本を学術書という形にしなかったのは、一般の人々が慰安婦問題をきちんと理解してこそこの問題が解決できると考えたからだ。すなわち、この問題において既存の権力を持っていない人々に向けて、言葉をかけるために、一般の人向けに書いたものであって、実際、これに応えてくれたのもマスコミと一般市民だった。[35]

ところが、彼らはただ学会誌に発表していないという理由だけで大衆向けの本だという。しかし、この本は、学際的な研究をまとめた本であり、[36]したがって一つの学問の枠組みで判断される学会誌に投稿する理由はない。何より、最初から一冊の本として書いたものだった。この本が「学会のこれまでの研究を抱擁しようとしない」(581)というが、慰安婦問題を考察する上で必要なものは十分に言及している。特定の学界で認められようとするものではないので、すべての先行研究が言及されなければならないわけでもない。特に「学会を批判しようとする意図」(581)を持ったことはないが、国レベルの問題になっているにも関わらず、韓国人の慰安婦問題研究者が極めて少ないという現状が残念に思えたのは事実である。慰安婦研究はその90パーセント以上が日本人によるものだ。20年以上問題視されてきたのに、韓国人による研究は決して多くなかった。だから、韓国人であり文学研究者であったからこそ見ることができた部分をまとめてみたのである。慰安婦問題に対する韓国の認識が一つではないのも、私の責任ではなく、支援団体や当該学会の責任ではないだろうか。学会で認められた人身売買の実態や業者、日本が行ったことを関係者が公に知らせなかったがゆえに、韓国では慰安婦問題への大衆的な理解が同じではない状況が生じた。私の本が専門家向けなのか、大衆向けなのか「どんな地点に立っているのか中途半端」(580)であるものに見えたのであれば、その責任は私にではなく、関係者に問うべきである。

拒否感(549)から出発した彼らの批判は、私が恣意的な解釈に基づき、慰安婦を「意図的」(554)に利用していて、そのための「安全装置」(544)を使っており、「卑怯」だとまで言っている。それだけでなく「初の試みでもないし、ユニークなものでもないし、だからといってきちんとやっているもの」(566)でもない「大衆向けの本」(561,572、581)というふうに私の本を全否定した挙句、私に「自らを顧みる」よう(571)説教までしている。私に対する呼称も「この人」(547)「自分」(559)という言葉を使う彼らの傲慢に、それでも応答する理由は、遅ればせながら彼らの今後の研究姿勢にプラスになってほしいと思ったからだ。

誤解と偏見なしに読んでもらえば、そして示された資料に謙虚に向き合ってもらえば、『帝国の慰安婦』は、元慰安婦の名誉を棄損するどころか、元慰安婦を売春婦と呼ぶ人々に向けて売春を再意味化した本である事実、それによって元慰安婦の名誉を傷つけてきた人々に対する批判を試みた本であること、また、慰安婦問題における搾取の問題を問う本であることが分かるだろう。「著者のやり方は間違っている」(584)と一言でこき下ろす彼らの傲慢から私は「若い歴史学者たち」の知的危機を見た。覇気はいいが、傲慢は、知を成熟させる前に疲弊させる。(『歴史問題研究』34号、2015・10、古川綾子訳)


[1] 『歴史問題研究』33号、2015。

[2] 鄭栄桓、「日本軍「慰安婦」問題と1965年体制の再審判」、『歴史批評』111、2015。

[3] 朴裕河、「日本軍慰安婦問題と1965年体制」、『歴史批評』112、2015。

[4] 朴裕河、『帝国の慰安婦』、根と葉、2015、133~134頁。

[5] ユン・ミヒャン代表東京YMCA講演、2012.6.9.

[6] 朴裕河、『反日民族主義を越えて』、社会評論、2004; 朴裕河、『ナショナル・アイデンティティとジェンダー』、文学ドンネ、2011.

[7] 朴裕河、前掲書、2015、462~464頁。

[8] 岩崎稔・長志珠絵、「「慰安婦」問題が照らし出す日本の戦後」、『記憶と認識の中のアジア太平洋戦争』、岩波書店、2015。この文章の翻訳文をフェイスブック2015年10月30日の「ノート」に掲載した(http://www.facebook.com/parkyuha)。

[9] 朴裕河、「第4部 帝国と冷戦を乗り越えて」、前掲書、2015、第1章。

[10] 朴裕河、『ナショナル・アイデンティティとジェンダー』、文学ドンネ、2011(原本である日本語版は2007年出版)。

[11] 朴裕河、「現論 慰安婦問題で対話を」、『岐阜新聞』外、2010.2.20.

[12] 朴裕河、前掲書(2015)、142-162頁

[13] 竹国友康『ある日韓歴史の旅』朝日新聞出版社、1991、119-120頁、1911年に作成された遊郭の設計図は日本軍によるものであり、女性の斡旋を依頼した相手が「東京業者」にだけ集中されていたという事実を明らかにしている。

[14] 朴裕河、前掲書(2015)、158頁とその他

[15] 対日抗争期強制動員被害調査及び国外強制動員犠牲者等支援委員会『聞こえますか』2013、110頁

[16] 女性のためのアジア平和国民基金編『政府調査従軍慰安婦関係資料集成』1−5、1998

[17] 韓国挺身隊問題対策協議会『強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち』1、ハンウル、1993、281頁

[18] 中支那派遣憲兵隊『陸軍軍人軍属非行表』1941.11、注釈16の文献2

[19] 韓国挺身隊問題対策協議会『強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち』4、プルビット、2001、207頁

[20] 韓国挺身隊問題対策協議会『強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち』3、ハンウル、1999、262頁

[21] ペ・チュンヒ(ハルモニ)のインタビュー、2014.4

[22] 波佐場清『「慰安婦は軍属」—辻政信が明言』2015.8.3(huffingtonpost blog : http://www.huffingtonpost.jp/kiyoshi-hasaba/comfort-wemen_b_7922754.html)

[23] 韓国挺身隊問題対策協議会『強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち』5、プルビット、2001、116頁

[24] ペ・チュンヒ(ハルモニ)の電話録音記録、2013.12.18.

25朴裕河,『和解のために-教科書・慰安婦・靖国・独島』根と葉,2005

26西野瑠美子,『日本人‘慰安婦’-愛国心と人身売買と』,現代書館,2015.

27対日抗争期強制動員被害調査および国外強制動員犠牲者等支援委員会,前の本,p177.

28チェ・ミョンイク『雨降る道』,『チェ・ミョンイク短編選』,文化と知性社,2004, p233~235

29『毎日申報』1941.3.21, 日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会, 『戦時体制期の朝鮮の社会性と女性動員』

30長沢健一,『武漢慰安所』,図書出版社,1983(翻訳は朴裕河)

31上記の本

[25] 韓国挺身隊問題対策協議会、『強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち』5、1999、118頁。

[26] 西野瑠美子、前掲書。

[27] 城田すずこ、『マリアの賛歌』、かにた出版部、1971、166頁。

[28] 対日抗争期強制動員被害調査および国外強制動員犠牲者等支援委員会、前掲書、115頁。

[29] 朴裕河、「『右傾化』の原因を先に考えなければ―徐京植教授の『日本のリベラル』批判、異議あり」『教授新聞』2011.4.18.

[30] 発刊当時の挺対協関係者のFacebookや民弁(民主社会のための弁護士の会)所属の弁護士からの伝言によるもの。

[31] インタビュー動画を撮影しているが、本人が公開を望まないため、詳細は省略する(2014.2)

[32] 挺対協が監修したとされるアングレーム国際漫画祭資料集『散らない花』(女性家族部、2014.6)は、オオカミに囲まれた少女(156頁)など、脅威や恐怖などのイメージとともに日本軍に連れていかれる(133頁)という物理的な強制連行が中心となっている。ソウル市が後援した挺対協主催のイベントポスターには「朝鮮の少女20万人、日本軍によって殆どの人が虐殺され、朝鮮に生きて戻れた少女は2万人あまり、被害者として登録しているハルモニは243人」と書かれている(2014.3)。

[33] 2015年9月にDMZ映画祭に出品された、キョンスン監督の映画『レッドマリア2』で長井和は、2014年の夏のシンポジウムで挺対協元代表が朝鮮人は「売春」ではないとして日本人慰安婦と区別しようとしていたと言い、難色を示した。

[34] 2015年9月13日、コ・ジョンソクはツイッターで「朴裕河と李栄薫は、本人たちはどう考えているか分からないが、全く違う。二人を区別することが出来ず、一概に非難するのは韓国民主主義の水準の表れであり、朴裕河の繊細さに対して李栄薫の社会的ダーウィニズムと一緒くたにして賛美するのは韓国ニューライトの水準の表れだ。哀しきかな!」と書いている。

[35] 2013年8月発刊以降、『京郷新聞』を筆頭に『プレシアン』『韓国日報』など、少なくないマスコミが本書のレビューを掲載した。また、告発直後にFacebookで出会った顔も知らない市民たちから擁護や支持をいただき、その出会いがきっかけとなり小さな平和市民団体を発足させるに至った。この過程はリベラルの問題をリベラル側の市民たちが認識し共有していく過程であった。

[36] 蔣正一、「原点を直視すること、または複雑性に向き合って」、『東アジア和解と平和のための第3の声討論会』、』2005.2.